サワコの朝

サワコの朝 2017年9月16日
芸能界の重鎮、この方の歌を聞くとつい拳に力が入ってしまいますが。
五木ひろしさんです。
五木ひろしyjimage
生年月日:1948年3月14日 
出身地:福井県
奥様は元女優の和由布子さん

五木ひろしさんというお名前は五木寛之(作家)さんからお取りになったんですって?そもそもは。

五木さん
ーそうです。作詞家の山口洋子先生が五木寛之先生の五木を頂いて、ひろしも五木寛之先生のペンネームから。

間違えられたりしなかったですか?

五木さん
ーデビュー後にいろんな所にキャンペーン行きますよね、ある青年が「サインください」ってきましてね、それで五木ひろし、よこはまたそがれって書いたんですよ。
それを見て、今度よこはまたそがれって本を出されるんですか?って



17才の時、松山まさるの名で歌手デビュー
その後、2度芸名を変えるも5年間ヒットに恵まれませんでした。
そんな中、4つ目の芸名「五木ひろしで」再デビューすると「よこはま・たそがれが大ヒット。




その後「夜空」「長良川艶歌」で2度の日本レコード大賞を受賞、日本歌謡界のトップを走り続けてきました。


デビューして53年?

五木さん
ー最初のデビューから数えますと53年目に入りましたね。


右手でこぶしを握るスタイルはいつ生まれた?


「よこはま・たそがれ」の時だけじゃなく、いつもマイク左手にお持ちになって、右手に拳をお持ちになってっというのが五木流っていう・・・。




五木さん
ー最初のデビューの時はね、センターマイクだったんですよ、マイクを持たなかった。
もう東海林太郎さんのように直立不動。
それから自然とマイクを左てに持つようになって。
なぜ左手で持ったかかと言うとですね、事務所がねキックボクシングの事務所だったんです。


キックボクシングの事務所がプロダクションだったんですか?

五木さん
ーはい、そこにいたんです。
ビルそのものがボクシング事務所ですから、開いてる時間は選手と一緒に遊びながらスパーリングをやったりしてたんですよ。

つい、普段やってる形が?

五木さん
ーだからスッとマイクを左手に持って、斜めに構えて、右手をこう、拳に。
それが私の歌う時のスタイルに自然と。それで「待っている女」というノリのいい歌をうたってる時に、よりこの形が強調されたんですよ。


完成されていったんですね?

五木さん
ーあっでも完成版は、めた、だから、おさら、いたい、いたい、う一度の「夜空」です。


初め「よこはま・たそがれ」を歌いなさいと言われた時はどうだったんですか?

五木さん
ー平尾昌晃先生の歌ったでデモテープを聞かせで頂いたんです。
面白い歌だなーと思って。今まで歌ったことがないタイプの歌だったから、あー、これは僕が歌わなくても売れるなと思いました。

そうなんですか?どこがどう?

五木さん
ーとにかく新鮮でした。
当時こういう詩はなかったですから。

ぜんぶ単語なんですよね。

よこはま/たそがれ/ホテルの小部屋/くちづけ/残り香/煙草の煙/ブルース/口笛/女の涙
あの女は行って行ってしまった/あの女は行って行ってしまった/もう帰らない
生き生きとした伴奏に乗って・・・

五木さん
ー詩もメロディーも新しい感じだった。
平尾先生ですからポップスの人、ノリがいいんですよ。
あの女は行って行ってしまったあたりからドラムがのってきてテンポが早くなるんです、それがまたとてもよかった。


いいんですか?

五木さん
ーそれがいいんです。
いまはちゃんと聞きながら演奏しますからテンポが一定してるんですね。

ズレないんですね?

五木さん
ーそこに、波と言うかうねりと言うか、ここは少しテンポをおとすとか、ここはノッてやるとか、そういう事がないんです。機械的になっちゃったんです。
でも、まだこの時代は、メンバーも一緒にレコーディングしてました。
歌を聞きながらまた、演奏を聞きながらやってました。生きてる感じがありましたね。
アナログの良さがあったんですよね。

記 憶 の 中 で ら め く


5才の頃ラジオで聞いて覚えた曲


ラジオから流れてくる歌謡曲、流行歌。
美空ひばりさんの「リンゴ追分」



五木さん
ー母が入院してるお見舞いに持って行った輪ゴムで巻いてた小さい袋、その輪ゴムを楽器代わりにはじいてリズムを取りながらこの「リンゴ追分」をうたっってたんですよ。病室にいた人たちが、僕が行くのを楽しみにしてくれてたので、よく病室に行ってみんなの前で歌ったんです。輪ゴムをパチパチはじきながら。

「リンゴ追分」が1つのきっかけになって、今の五木さんがあるみたいな感じですか?

五木さん
ーとにかくラジオの時代に「聞く」という事がどれだけすごい事かという事をその時知ったんですよね。



歌詞を書き留めて歌を覚えた

だって楽譜もないわけですもんね、歌詞カードも。

五木さん
ー新しい歌、三橋美智也さんの新曲だとか、いろんな方々の新曲が出ると、ラジオで聞いて1番から走り書きをするんです。それで1番の歌詞で合わせてメロディーを覚える。小学校中学校は毎日、毎日家に帰ってラジオを聞くのが楽しみでした。当時、第一線で活躍されてる方は、毎月レコードを出してたんですよ、三橋美智也さんは年間13枚出してました。例えば50人いたらですね、どれだけの数になるか。それを聞いて聞いて、書いて書いて。それが後に私の頭の中に3,000曲歌えるっていう風になってるんです。


それじゃ、5歳から培って・・・

五木さん
ーたくさんの歌を知るという大きな宝になったんです。


いくつの時にプロの歌手になろうと思われたんですか?

五木さん
ー5、6才の頃から歌手になりたいなーと思ってた。
小学校に入った頃はもうそれだけを考えてました。
だから早く都会に出て行かないとね。

早く学校を済ませて。


五木さん
ー中学校を卒業するのが待ち遠しくって。
この田舎にいたんでは、僕は歌手になれないと。
変な話、こんなに上手い子がいるのに、ね、都会に居ないと誰も見つけてくれないと。
のど自慢も来ませんでしたから。
たまたま姉が京都で働いてましたから、卒業した翌日に京都に行きました。

福井から京都に

五木さん
ー16才の時にコロンビアのコンクールで優勝してそれで17才でデビューしたんですよ。

八代亜紀さんと熾烈な賞レース


五木ひろしという歌手がどんどん大きくなっていって、八代さんと闘い合ったという話もあったけど?

五木さん
ー賞レースはありました。賞と言うのは大きな目標でしたから、毎年戦いました。
八代亜紀さんは僕が銀座で歌ってた時に、同じクラブで歌ってて、僕のギターで歌ってた娘ですから。

そうなんですか!

五木さん
ー僕が伴奏してたんですから。それでなんと戦う事にもなっちゃったっていう。
五木の「五」と八代の「八」を取って五八(ごっぱち)戦争って言われる戦いが始っちゃったんです。


実際どうだったんですか?


五木さん
ー全部負けました。

その時はどんなお気持ちだったんですか?

五木さん
ー彼女は、もう大変喜んでました。

そりゃそうでしょ


五木さん
ー喜んでましたと同時に僕に喜んでもらいたいと思ってたみたい。

昔から知ってる仲だから


五木さん
ーとったー ありがとう~って言って握手を求めて・・・。
僕はもう悔しくて。
もう、踏んだり蹴ったりです
でもね、それから僕はより一層頑張りました。
「ザ・ベストテン」がはじまってましたからね。
これに出る事、ここでなんとか上位に行く事を大きな目標にしてました。
「ザ・ベストテン」は12年間やってたんですが、12年間の第1位が「長良川艶歌」

嬉しそうな、急に嬉しそうな顔になっっちゃって



どっちかて言うとアイドル系とかポップス系が強い番組だったの。
演歌っていうのは時間はかかるんですよ。


浸透するのにねー


五木さん
ー「長良川艶歌」は8位になったり11位になったりね、また7位になって12位になって。


そんな上がったり下がったりして?

五木さん
ーそれを鵜飼現象って言ったんです。

潜ったり出てきたリ。

「ザ・ベストテン」出演時の映像を見ながら・・・。

①五木さんへのリクエストの葉書を階段にしたセットが用意されて、靴のままでは上れないと、靴下を脱いで一段一段登って歌ってらっしゃいました。
②福井にお母さまのために建てた豪邸の前で生中継。
日本庭園が広がる先にお家の玄関がある旅館のような豪邸でしたー!
「ザ・ベストテン」の司会の黒柳さんは「神社だ!神社だ!」とおっしゃってました。

立派なお家を福井にお建てになってー

五木ひろし実家

五木さん
ーあれはお袋のために建てたんです。
この日は衛生中継でした。

五木さんのためにお金を使って。

五木さん
ーベスト10に入ってたらどこにでも行くというのがこの番組でしたから。
ハワイに行こうと、オーストラリアへ行こうとどこでも来ましたから、じゃあ家へ来てくれと。
嬉しかったですねー自分の夢が実現しましたから。

ジャンルが違う歌手が一緒だから面白い


「ザ・ベストテン」なんかにお出になると、アイドル全盛時代でもありますし、あんまり、歌が上手いかなぁ?と首を傾げたくなるような人たちもいて、あの環境の中どうだったんですか?

良かったですねー、戦いがいがありました。
結局ね、上手いとか下手じゃないんですよ。
いい歌かどうかなんですよ。だからいい歌を作るという事にみんな一生懸命だった時代なんですよ。
どっちかっていったら、下手な部類に入ったとしても、作品がいいから。


例えば?


どっちかって言ったらアイドル系そんな上手いって人はいなかったと思う、でもそれが良かったんですよ。いろんなジャンルが戦う土俵って言うんですかね、それがあの時代よかったですね。
今、全部分かれてるじゃないですか。演歌は演歌、アイドルはアイドル。

ファンも分かれちゃうし。


世代世代でね。
みんなが1つになった歌番組。お茶の間でおじいちゃんも、おばあちゃんも、お孫ちゃんも家族もみんな含めてテレビを見てた。
僕らの40数年前の歌でも、その頃10才だった子が50代を超えてでも、その歌を知ってくれてるわけです。そうしないと歌は残っていかないわけです。


苦労する母の姿を見たから今の自分がある


直接伺ったことはないですけども、小さい頃にお父様が途中で出て行っちゃって、お母さま1人で苦労なさって、子ども4人育て上げて、だからこそ自分が結婚したらそういう家庭には絶対にしたくないって気持ちが強かった?


五木さん
ーそうです。


家族を幸せにしたいから・・・


五木さん
ーそんな中で子どもなりにね、そういう母を見てそれが励みになり、自分が今度そういう立場になった時には、子ども達にそんな姿は見せたくないなとか、その頃の思いが今の自分の人生につながってるんです。あれがなかったら僕こんなに頑張らなかったと思います。
ぼく子ども3人いますけど、「家族のために頑張ってくれてありがとう」「お父さんを見て誇りに思います」というメッセージをもらったりすると、感極まります。それが1番うれしいんですよ。

奥様にはどういうお気持ちがありますか?

女優としてこれからって時に、女優業を全てやめて、嫁に来てくれたわけじゃないですか、そんな思いで来てくれた嫁さんにね、来てよかった、ここに嫁いでよかった、そう思ってほしいわけですよ。
だからそのために頑張る。
支えてくれるからこそ元気で頑張っていられることだと思います。

特別に弾き語り


五木さん
ーぜひ聞いてもらいたい歌があるんです。船村徹先生の「希望(のぞみ)」って歌なんですが。
船村先生が女子刑務所の慰問をされてたんですが、ここから出たら母に会いたいとか、子どもに会いたいとかsの気持ちを歌った歌なんです。

泣いちゃいますね。

で五木さん
ーもこれは女囚に限らず、例えば病気をされてる方とか、事情があって会えないとかそういう人たち全員の歌でもあるんです。


船村先生、山口洋子先生、平尾昌晃先生と流行歌時代から活躍されてた先生方が次々とお亡くなりになられて。

五木さん
ーそうですねー、時代を造られた方々がどんどん、いなくなっちゃうって言うのは、とても寂しいですし、
と同時にですね、僕は運よく出会えて来たので 、いい歌を継承していきたい。





五木ひろしでデビューしたのが1971年なんです。
そのちょっと前あたりから、フォークソングと言うのが世に出てきたんですよ、
井上陽水さんの「氷の世界」というアルバムその中に「人生が2度あれば」っていう曲に感動したんですよ。


胸打たれちゃった。

五木さん
ーはい。
その中には母を想う、父を想う、家族を想う。「人生が2度あれば」の歌詞が自分に全く当てはまったんですよ。なんで、人生が2度あればって言ってるかと言うと、今度人生がまたあれば、楽な自分の事を考えて生きてほしい、そんな人生を送ってほしいという子供心の思いなんですよね。

これは子が親を想う歌。今それを聞くと、自分が親の立場になってきましたから、今度は親にそんなことを想ってくれる子どもの思いがわかるわけです。


 お母様がご苦労されたお話をされた時はこみ上げるものがおありのようでした。
家族思いの心温かい五木ひろしさんでした。


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